よかったところがみるみる崩れてハナにつくものに変わることなんて全然あるとおもう、

息子も娘もあっとゆうまに小学生になってから、映画を一緒に楽しむことが多くなってきて成長を感じる🎬
映画館で!話題作を!ではなくって、主に「これを観ていたら人生が豊かになるだろうな」とゆうものたち。
令和7年にレンタルビデオショップで会員証を作ることになるとはねえ〜💳と笑いながら店内をぐるり回れば、
「ネバーエンディングストーリーは絶対観せたいな」
「スモールソルジャーズ!あったねえ〜なつかしすぎる!」
「ビッグママハウスおもしろかったけど後日そうゆったら兄たちに笑われて悲しかった記憶が…」
「マウスハントもいいよね〜(ゴキブリのシーンきもいけど)」
「ミクロキッズは今でも通用するわくわくさかな!?」
「フックやジャックなどなどのロビン・ウィリアムスは押さえておきたいよね」
などと、並ぶパッケージたちに記憶のフタが開いて閉まらない、
そうして気づいたのが、自分が小さい頃、なんとたくさんの作品に触れさせてもらっていたのか!とゆうこと。
わたしは親のことが好きではないけれど(思い出すだけでも疲弊するほどだけれど)、これは素直に感謝するべき部分だとおもう
と同時に、自分も、我が子にまさにおなじものを与える姿勢をとってしまっているから、轍を踏んでいるな…ということでもある、
「わたしはわたし自身のことがすごく嫌いで、それは自己肯定感を育まれなかった子ども時代がかなり大きいと断言できるから(とか人のせいにしているのとてもとても嫌なのですけど)、自分が親になっても、(それしか手本を知らないのだから)きっと自分の親のようにしか振舞えず、悲しい人間をひとり増やすだけにしかならない」と思ったゆえに、出産をけっこう悩んだことがあるのだけれど、あーあやっぱりなのかよ、と再確認して暗くなる、
とりあえず、夫に結婚する前から「観ようよ!」と誘っても「小さい頃観たから僕はいい」とのらりくらりかわされていた『E.T.』をはじめて鑑賞できたのだけれど、いまのところ子供たちとしてもいちばんおもしろかったようで、観てからしばらく経った今でも唐突にセリフの寸劇が繰り広げられるほどです、
みなさんちゃんと観たことあります??あの茶色いシワシワ気持ち悪い、とかおもってないです??カメラワークからシナリオから何からすべてがとてもよくできていて、ウオーーッスピルバ〜グ〜と感動するよ(なんてひどい感想)(いやもうちょっとまじめに答えられるけど笑、ここでは必要とされてなさを感じて省く姿勢)
余談、最近ひとりで観たものとしては『ニュー・シネマ・パラダイス』がグンを抜いてよかったです、いまのこの歳で触れることができてよかった、サボテンをお皿にしてサラダを食べるシーン一生忘れないとおもう🌵(そこなの?😂)
36年も生きていると、観るの2回目です!ってゆう映画もたたあって、『時計仕掛けのオレンジ』はやはりその秀逸さに唸るのだけれど、口コミを見てみたら胸糞映画だ!と嘆いている人も一定数いらっしゃってびっくりした、
わたしはそう捉えない人間に育ってよかったな、とおもう方向で心をなだめてゆく
⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰
📚
わたしが本を読む理由を人に説明するとき、
「自分の感情を言語化するのがとてもへたっぴなので、本を読むとそれらの答えを代弁してくれているような気持ちになるから」と、とっさに答えたのは、あながち間違っていないのかもしれない、どうりで引用が多いわけじゃない?(˙_˙)
だれだって、絵の上手い人に似顔絵を描いてもらえたらうれしい!のとおんなじ感覚な気がする(?)
自分が暮らす中のいろんなあれこれに名前を付けてもらっている…?

『もしもし、運命の人ですか。』穂村 弘
めろんとのフリーペーパーのおすすめBOOKとしても取り上げたほど好みでした、
全体を通して「だれしもに少なからずよぎる「実はわたしのこと好きなんですか!?」みたいなお花畑な変換思考を、こんなにもあけすけにしているのになんていやらしさがないんだろう!すごい!」とキャッキャ笑える内容だった印象なのに、今回文字起こしにあたり、比べてまじめな部分を残していたので、「これほんとうに穂村さんの『もしもし〜』でいいんだっけ…?」と三度見した、それほど緩急がしっかりしすぎている、TKOどころかKOである
"自分のクラスを尋ねて「あなたとはいいお友達になれそう」などと云われたら傷つくだろう。「いいひと」は嫌だ。「いいひと」には展望がない。"
"「恋にかかる瞬間」
風邪をひいた瞬間がいつかってわからないよなあ、と思う。
私の場合は、扁桃腺が大きいせいか喉からくることが多くて、「あ、なんか、のどちんこの左側が痛い」と思うのだが、そのときはもうすっかりやられているのだ。
喉の痛みは症状の自覚の瞬間であって、そのときに風邪をひいたわけではない。ウィルスの潜伏期間があるから、実際に感染したのはもっと前ということになるのだろう。喉が痛いと思ってから慌ててうがいをしても、もう遅い。風邪のフルコースをしっかり味わうことになる。
それにしても、ウィルスの最初の一匹にやられる瞬間って何も感じないものなのか。生物としての防御センサーはどうなっているのだろう。
風邪と恋愛を一緒にするのも変かもしれないが、ひとを好きになる瞬間がいつなのかも、はっきりとはわからないように思う。いつどこで好きになって、どれくらいの潜伏期間の後に、どんなかたちでそれを自覚するのか。自分自身のことで、しかも非常な重要事項なのによくわからないのだ。"
↑こういうだれしもが「わかるわかる」となる事柄を切り口とする?のがほんっっとうにお上手で感動する
"つまり、女子にとっては女子力の圏外にある長所の多くが恋愛の入口にならないのだ。むしろ出口になることが珍しくない。自分の理解できない「種目」で才能を発揮し始めた奥さんや彼女に旦那や彼氏が冷たくなる、というパターンだ。極端ない云い方をすれば、女子には「女子」という「種目」しかないのかもしれない。"
↑ここでゆう「女子力の圏外にある長所」とゆうのは、将棋が強いとか、トークがおもしろいとかが該当するみたい。後に述べる「ハイディ・ハワード実験」でものすごくひっかかっちゃう部分?
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それから、くどうれいんさんの『コーヒーにミルクを淹れるような愛』を読んで。
読んだのだけど、序盤から居心地の悪さ・違和感のようなものがあって。
いや!でも!せっかく予約して取り寄せて借りられた本なのに…!と濁していたけれど、中盤からいよいよ苦しくなってきて、耐えきれず「通い先の図書館に常設で置いてあるゆえに後回しにされがち」な、穂村さん(また穂村さん)の『本当はちがうんだ日記』(借りるの3回目、いつもここまで辿り着かないうちに返却期限が来てしまう)を読んだら、もう最初のエッセイ、ひとつ4ページくらいので、これです これです これだけあればいいです ってようやく自然に呼吸ができた、
これはのちに挙げる、僕のマリさんと、燃え殻さんを読んでるときにも感じた違和感で、れいんさん含むこの3名は「今をときめくエッセイスト」(?)であり、いつも読んでるような文学賞をもらうような小説家ではないからね!!ってゆえばそうなのかもだけど(そもそも穂村さんは歌人だけれど)(なんならおなじエッセイストでもあるけれど)…
まだ掴みきれないなりに言語化すると、
1)感じたこと(主観)よりも行ったこと(客観)に重きを置く、その説明が長い(知りたいのはそこじゃない)
2)最後にムダに綺麗にしめくくろうとする駄文が多くそれがふわっとしている
この2点プラス、くどうさんは「あなたってすごいね!人より才能があるね!って言われたい(言われてきた)、けど決して自分からは欲しがらない、しかし文の端々にそれが溢れ出ていてきもい」という感覚が多く好きじゃなかった、
なんて、とてもごめんなさい、あくまでわたしはです、どの口が!ってゆうのもわかっています、喧嘩がしたいわけではないの、「ふーんそういういち意見もあるのか」と埋もれさせてほしい、ここを読んでいるあなたはそう感じないと願う
なんだろうね、「これが"良い"のであれば、どう"良い"のかをわたしにも伝わるように説明してほしい」です、
理解はしたいんだよ、「わたしがまちがってた!好き!」にまで持っていくほどじゃなくてよくて、「なるほど!そういう良さがあるんだね!」って汲み取りたいの、

このあいだ、街でこの映画のポスターを見かけて鳥肌、ってなったのですけど🐥
もういまはこっちの、何かゆってそうで何にもゆってないペラペラのほうが良いとされている世界なんでしょう?
老害!!ってゆわれたら素直に受け入れる上で言わせてもらいたい、けど、「知ってたけど、知らなかった」は!もう!ちょっと!ごーめーんーーー!笑
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『明けないで夜』燃え殻
"その夜、彼から一通のメールが届いた。「夜になると苦しいよ」という内容だった。一筋縄でいくことなんて、いままでもこれからもほとんどないだろう。それでもいい。根気よく傍らに誰かがいてくれれば、その誰かになれたなら、人生はどうにかやり過ごせることを、僕はもう知っている。"
↑つまりこういう最後のひと文にニャァアアかゆいかゆいかゆい、ってなるのわかります??
"我を忘れられるものをいくつか持っていないと、生きていくことに嫌気がさしてしまいそうになる。日常をなんとかやり過ごすためには、映画館の暗闇の中のような絶対的な安心感が必要だ。映画館の暗闇の中のような言葉や音楽。誰にも教えていないパートナー、ひとりの時間。寄り道と空想。人生に本当に必要なものは、たしかな肩書きや名前の付いていない、そういうあれやこれやな気がしている。"
↑つまりこういう最後のひと文にニャァアアかゆいかゆいかゆい、てなるのわかります??パート2
"どこを切り取ってもバズることはない内容だったが、「バズる」という現象につきまとう下品さも一切ない番組になった。"
↑バズるは下品なのか…という気づき
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『愛と忘却の日々』燃え殻
これの、『明けないで〜』と『愛と忘却の〜』のどっちがどっちかわからなくなったくらいには色がないとおもう、
どちらもエッセイだからそうですよ!と言われたらそれまでなのだけれど
燃え殻さんは、キリンジ泰行さんつながりでデビューからちょこちょこ触れていたけれど、もう読まない気がする
このあいだ、ひょんなことからポケモン友だちと「お互いラジオ愛が高い!ヘビーリスナー!」とゆう共通の趣味がわかり、好きだったり聴いたりしている番組は?というので盛り上がったのだけど、KIRINJI高樹さんの番組はやる気がないので聴かなくていいですってゆっちゃっただめなファン、
つまり好きな人の好きなものだったり作るものだったりしても、そこは色眼鏡なくいたい
これに対し「マヌちゃんはいいものはいいと、だめなものはだめとはっきりゆってくれるから信頼できる」と評価する友人たちよ、ちがいます、
それはわたしへの色眼鏡がかかってるのではずしてください
"そのエロ本には、「エッチ妄想の交換日記をしませんか?」という投稿コーナーまであった。「エッチ妄想の交換日記」という単語を、人生で初めて見た。インターネットが普及する前の男女の営みは、なんだか全体的に大らかだ。
"男性の中にも、答えを求めていないのに相談を持ちかける輩は確実にいる。「いない」という意見を持っている人には、僕がそうですとカミングアウトしておく。もうすこし詳しく説明すると、こんなにいま悩み苦しんでいるのに、相談しておきながら申し訳ないが、なぜ「正解」を提示されないといけないのか、というのが本当のところだ。
よって最終的には、「正解など聞きたくない。それくらい薄々わかっている。もういい」の境地に至ってしまう。すくなくとも、僕はだいたいその経路を辿ることが多い。"
"相性が合うとは、「欠点が一緒」ということなのかもしれない、と前向きになれた夜だった。"
"マルチバースのない世界で、僕たちは生きている。そんなことはわかっている。ハッピーエンドもなかなか難しそうだ。そうなると「ここではないどこか」ではなく、「いつか王子様が」でもなく、隙あらば、いまそこにいる「推し」を見つけることのほうが、賢明なのかもしれない。"
"いつか、この週刊新潮の連載が終了を迎え、あらゆる仕事のオファーがなくなっても、僕はきっと日々なにかしら物を書いて生きていく気がする。「なりふり構わず」の挑戦は、そのうち仕事ではなくなり、「生き方」か「暮らし」のようなものになった。やっと、納得できたんだと思う。"
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『記憶を食む』僕のマリ
▶︎「明日のパン」という云い方は関西地方の言い回しらしい(いたってシンプルに、明日の朝食べる用のパンのことを指す)。
"昨年、知人がやっているポッドキャストにゲストとしてお邪魔した際、「大人になったと思ったとき」についての話になった。二十代の頃は、朝帰りしたときや一人で飲みに行ったときにそれを強く感じたものだが、そのときわたしが出した答えは「明日食べるキャベツの千切りを用意しているとき」だった。明日の胃腸に配慮するようになったとき、朝帰りやお酒よりもう一段超えた「大人」になった気がした。四十代、五十代になったときの答えもまた、変わっていくんだろうと思う。衰えや退化ではなく、それは進化なのだ。"
↑わたしが「大人になったと思ったとき」は、「ジブリ映画『耳をすませば』の、雫の、図書館で働くお父さんにお弁当を届ける任務よりも、姉の、洗濯や掃除をこなし買い物に出て晩御飯の支度をする、のほうがいいな、と思えるようになったとき」です。
"これも結婚前の話だが、夫と喫茶店に行って、彼は苺のショートケーキ、わたしは小さいパフェを注文した。外食すれば大体違うものを頼んで一口ずつ交換するのが我々の定例だが、その日彼は自分のケーキのてっぺんにあった苺をまるっとくれた。「ええっ! いいの?」と聞くと「いいよいいよ」と言うので、じゃあ…………と遠慮なく食べた。何気ない一コマだったが、わたしにはかなり衝撃的な出来事だった。わたしだったら、さすがに苺はあげられない。やりすぎだと思う。どんなに機嫌が良くても、仮に自分の子ども相手だったとしても、それだけは無理だ。苺のショートケーキでいえば、お尻のあたりのクリームたっぷりの部分すらあげられないかもしれない。苺をあげるなんて断腸の思いだろう。 その日帰った後もずっと苺のことを考えて、「すごいなあ……」 とひとりごちていた。”
↑これがあまり好きではなかった(要言語化、大袈裟なせい?)
"少し前にラジオで聴いた話で、すごく印象に残ったものがある。子どもと夫と暮らす女性が、夕食の唐揚げを揚げるときは、一番美味しそうに揚がったものを先に三個くらい自分が食べることにしているらしい。そして夕食時、息子たちや夫の皿には唐揚げを大盛りにして、自分の皿には一個や二個だけのせる。すると、「ママ!それだけじゃ可哀相だよ」と、みんなが唐揚げを分けてくれるのだという。ケーキも、一個余分に買ってきて、帰宅即食べるのだそうだ。わたしはその話を聞いて、いたく感動した。なんとたくましく、機知に富んだ行動なんだろうか。これは食いしん坊の話と見せかけて、自分が機嫌良くいられる選択肢を増やすという、他者へのケアにも繋がるような含蓄のある話だった。いつも勝手に頑張って疲れて不機嫌になる傾向のある自分は、深く反省したのだった。"
↑これをそんなにいい話なのだろうかだとかズルだのアリですかだのとひがまずに、おなじくよいと感じられるようになれる心を持ちたい、食いしん坊の話と見せかけてただの食いしん坊な話…じゃないと信じたい
”自分のお気に入りを誰かに勧めるとき、純粋な気持ちとは別に処方箋のように届けることもある。そういう引き出しをたくさん蓄えて、自分も周りも大丈夫にしていけたら良いと願っている。"
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『ジョゼと虎と魚たち』田辺聖子
ジョゼの映画(犬童一心監督が実写のほう)の、「僕が逃げた」とゆう結末ほどしっくりくる答えの物語が他になくて、わたしにとってものすごく大事な立ち位置の作品だったのだけど、アニメの映画はひどいハッピーエンドだときいてショックを受けて、原作も確かめたくなったの。そうしたら、本のタイトルこそ映画と一緒だけれど、『ジョゼ』は短編集で該当の物語も20ページほどの短いものだと知りとてもびっくりした、でもなるほど、これはわたしの大事なものをひとつ増やしてくれるものだった
他のどのお話も、途中で始まり途中で終わる(まだまだ話は続く)切り口がよかったし、不倫だの再婚だの片思いなどのあらゆる立ち位置の主人公たちなので、だれが読んでもわたしはこのお話と重なる部分がある!がきっとあるはず、
田辺さん、どうしても女性主人公の関西弁のOLの話、ってくくりにしていたんだけどちゃんと巨匠だった(当たり前だろ)、おみそれしました
▶︎「われら、山頂の黒き土に巨(おほい)なる穴をうがち、人知れず恋の棺(ひづき)を埋(うづ)めむ」の詩、西條八十(さいじょうやそ)
"碧は外泊したことはないが、家族に結婚のことを告げてから、目立って帰宅が遅くなった。梢が眠りこんでいる深夜、合鍵で入って来て、二階へ上ると安心したのか、
「ふーっ」
と息を吐いている。香水か洋酒のそれか、強い異風な匂いが流れてくる。碧は枕もとのスタンドだけつけて服をぬいでいるらしい。押入れは梢のほうの部屋にあるので、蒲団はいつも梢が敷いてやるのであるが、碧は酔っているのか、やや荒っぽい動作のようだ。薄紫のバンストを脱ぎすてたが、それは丸まって梢の部屋との境あたりに飛んできた。香水と酒と、西洋の匂いが混じって立った。そのうすい、くしゃくしゃのそれは、あまりに匂いが強いので、それ自体がオトナの女の脂ッ気のしたたりのようにも思われた。碧がもういちど、
「ふーっ!」
というと、そのパンストがまるで声を立てたように梢には思われた。
そのまま、しんとしているので、あたまをもたげてそっと覗くと、碧はスーツもブラジャーもそのへんにぬぎ散らし、パジャマの上衣だけ着たところで面倒になったものか、蒲団に倒れこんで眠っていた。ショーツはごく薄手の白いコットンで、それがあんまり小さいビキニだから、栄養のいい、つやつやした、剛情そうな縮れ毛が、おさえかねる勢いではみ出していた。碧はパジャマの上だけ着て、下の半身はノビノビと投げ出したまま、ぐっすり眠っている。すべすべした褐色の脚は、蹴る力も跳ねとぶ力も強そうな筋肉が張りめぐらされ、その付け根をふちどる飾り毛も、同じように意地強そうだった。碧も、彼女の縮れ毛も、ちっとも悪びれていないようすで、梢はまたもや鼻柱をがつんとやられたようにひるんだ。
オトナの女にはかてん、——というような気がシミジミした。"
↑「陰毛が見えてる」という出来事をこんなふうに描けるのかと感動した、むりだ、オトナの女(田辺さん)にはかてん
"(子をもつということは限りなくエゴを知ることだ)"
"そういう堀サンが好きなんです。なんか、おかしい人なんです。
でもそういう人を、無体に恋人にしちゃうと、もう、それだけの話になってしまいます。"
↑「不倫」で片付けない美しさを見た
"(不機嫌というのは、男と女が共に棲んでいる場合、ひとつっきりしかない椅子なのよ…)
とえり子はいいたいのである。
(どっちか先にそこへ坐ってしまったら、あとは立っていなければならない椅子とり遊び。自分が坐っちゃいけないのよ)
二人とも不機嫌になることはできない。もし、なったとすれば、それはもう共棲みの関係を解消したときで、まだまだ共棲みしようとすれば、椅子はつねに一つしかないと知るべきである。"
"ジョゼは泣き笑いしていい、恒夫はにわかにジョゼが可愛かった。信じられぬほど小さく、まことに恰好のいい美しい唇を目の前で見ていると急にそうしてみたくなって、接吻した。かたく引き締めている彼女の唇に長いこと挑んでいるうち、唇がめためたと開き、恒夫は逃げ惑っているジョゼの熱い小さな舌をとらえた。"
↑ジョゼのエロキッス・パート1
"「どないしてん。いややったら外へ出んでもええねんデ。家に居ててもええねん」
「ちゃう。嬉しすぎて機嫌悪なってんねん」
恒夫は笑ってジョゼにキスする。 ジョゼを見てると、外出するより、鍵をかけてまた寝たくてたまらなかった。 繊い人形のような脚のながめは異様にエロチックで、そのあいだに煽動している底なしの深い罠、鰐口のような罠がある。恒夫はそこへがんじがらめに括りつけられたように目もくらむ心地になる。"
↑ジョゼのエロキッス・パート2(うれしすぎて機嫌悪くなるのわかる)
"前庭の白いタイルの床に、ピンクがかった大理石のニンフの彫像があり、噴水が上っている。銹朱色の鎧扉がすべての窓についていて、芝生の切れたところは、きちんとした敷石になっていた。玄関の白いドアのノブまで凝ったつくりである。寝室が二つ、バストイレが二つ、食堂とキッチンと、入ったところに居間という間取りだった。寝室は二つとも二階になっているのは、海を見るため。(中略)連は「海の見える別荘」が夢だった、と話していた。もっとも、これも女といっしょで、(そこにある)と思ったら、実際に行かないでも満足できるらしいのだ。"
↑海を見るため。で説明が綴じられるのいい!「そこにあることが重要」だという考え方、する人いる〜ってため息出る
"大庭との交わりを(以和子は今ふうにセックスとは呼びたくない。それはなんのことやろうという気がする。むしろ、 情交といったほうがぴったりする)思うたびに以和子は物悲しいような愉悦の波に目まで溺れそうになる。そのとき、(子宮の在りどこを知る……)という気になる。胃袋の在りどこを知るうまい水、という川柳があるが、冷たい水が体内を下って胃へ落ちるのがはっきり分るように、子宮の在りどこがわかる気がする。 初潮の早かった以和子は閉経も早いのか、去年ごろから忘れたようになっている。忘れるというのがぴったりだった。以和子は昔、血の滴る女だったということも忘れかけている。いつもひそかに、(いまがいちばん、いい……)と思うくせのある彼女は、閉経すればしたで、それになんの感傷も感慨もなかった。このぶんでは子宮をとってもそう思うかもしれない。以和子が「子宮の在りどこを知る」と思う、その子宮は現実のものではなくて、女の人生そのもの、なのだ。女の生きてるあかしの窮極の核なのだった。"
↑朝井リョウさんの『正欲』でも「推しの声は子宮に響く」ってゆう表現があった記憶があるのだけど!わたしはこれを下衆だとはおもわない、
"「ここになあ………」と大庭はみだらに優しい声で以和子のあたまの上からそっという。指は以和子のやわらかい陥穽(おとしあな)の縁辺(ふち)まわりをそっとなぞっているのだった。
「白いもんが見つかるようになってから、男と女は楽しおすねや。これから、やねんで。先途、楽しみまひょなあ……」
これからのことはわからない。やっと以和子は大庭に浴衣をそろりと脱がされるままになっている。ちっとも慣れない羞ずかしさに以和子は咽喉がかわいてしまう。雪の降る音がきこえそうな気がする。"
↑こんなえちえちな表現初めて知った、死んじゃうかとおもった(しかもこのひと文を最後に解説に続くの、HP赤ゲージなのに威力120クラスぶちまけられる感覚、容赦ない)
映画も本もいろいろと触れてみて、おんなじ時間を使うのであれば名作に触れていればよいんだよ、という結論に辿り着きつつある
さゆき嬢が「あれこれとたくさん読むより、良書を覚えるくらいに何度も読み返す方がいいとゆう答えにしか行きつかない」とゆよなことをゆってたんだけど(ソースどこいったの)、わたしもその悟りを開きつつあるかもしれない、
とりあえずジョゼは所有して何度も読み返したい
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『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ (著)、岸本佐知子 (翻訳)
ふだんは日本の文学にばかり触れているので、いまどき(?)のアメリカの小説家の作品に触れるのは新鮮だった!
暗さの質が好きでした、これは読まないとおもしろさが伝わらない作品
「スパイダーヘッドからの逃走」が触れたことのないハラハラですごく好きでした(短編集です)
▶︎ルースキー(露助)、ダング・イット(ちきしょう)の2つは言っていいスラング
▶︎ホーリー・ゴーリー(ぶったまげた)、クラッパー(ホラ吹き)
ルースキーはフードパーカーの上からジーンズの上着、という服装で協会に来ることがそう珍しくない(らしい)
・袋小路のフリガナ - カル・デ・サック
・「シャッポをぬぐよ」ってゆう表現いまどき伝わるのかな(うれしかった)
・じじむささ - 男性の服装・顔つき・態度などが、年寄りじみてみえること。
・「兎唇の」って口唇口蓋裂を指すであってる?
・相手をおちょくる手段として、スノーエンジェルをするシーンが最高でした
・アウシュビッツのこと、もうちょっとわかるべきかもしれない(『戦艦ポチョムキン』を観た影響)
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ここから本の趣が変わります、そして抜粋が多くなります(よいなとおもったところを読み返したいので)
ある程度要点は突いているとおもうので「本なんて読んでる時間ない」とゆう方の助けにもなるかも

『一汁一菜でよいという提案』土井善晴
"「台所が作る安心」
仕事場と住居が一緒にある我が家では、撮影など、仕事で作った料理がたくさんあります。でも、仕事でできた料理は、撮影が終わってからスタッフで食べたり、お客様にすべて持って帰ってもらいます。そういったご馳走を一皿に盛り合わせて、帰宅した子どものために取り置いて、食べさせることを妻は一切しませんでした。私など、忙しいのにわざわざ作らなくても、あるものを食べさせればいいと思っていました。でも妻は、子どもが帰ってきて、「ただいま」の声を聞いてから作り上げるのです。
仕事でできたご馳走と妻がその場で作ったお料理は、食べ物として同じでしょうか、違うものでしょうか。全く違うものですね。それがご馳走であるとか簡単なものであるとか、味つけなんてことも問題ではありません。 妻がその場で娘のために作る料理の音を、娘は制服を着替えるあいだに聞いたでしょう。匂いを嗅いだでしょう。 母親が台所で料理をする気配を感じているのです。 まさに料理は愛情です。どれだけ家に帰ってきてホッとしていることでしょうか。どれだけ安心できたことでしょうか。愛されていることを全身で感じているのです。だから子どもにとって、親の料理は特別なものなのです。 妻のしていたことの意味に気づくのが遅すぎました。 妻には感謝しています。
台所の安心は、心の底にある揺るぎない平和です。 お料理を作ってもらったという子どもの経験は、身体の中に安定して存在する「安心」となります。それは、大事のさなかにも、ただ逃れようとする恐怖心を抑えてくれるように思います。安心は動揺することなく冷静に対処するための落ち着きとなります。安心は人生のモチベーションともなって、未知の旅に出る勇気になるのです。やがて、安心は思い出となって蘇り、自らを癒してくれると、自らの経験と照らし合わせて考えました。"
↑わたしも決して料理はうまくないし家事の中でも特に好きじゃないけれど、毎日ちゃんと作って台所に立つ姿を見せている。先日、息子が図画工作で立体カードを作ってきたのだけれど、それのメッセージ欄に「お母さん いつもごはんを作ってくれてありがとう」と書いてあって、ああこれのとおりなのか、と思うなどした。
"そもそも食文化というのは、その土地の風土の中で安心してものを食べる合理的な方法で成り立っています。最近はよく、「機能的」なことを「合理的」という言葉にすり替えて言われますが、時間を短縮する、便利で都合のよい「機能」と、理にかなった「合理」では意味が違います。機能性は、多くの場合に素材本来が持つおいしさと健康価値を犠牲にします。"
"「家庭料理はおいしくなくてもいい」
家庭料理で言うところの「工夫」とはなんでしょうか? それは、おじいちゃんが食べやすいようにもう少しごぼうを柔らかく煮ようとか、小さく切ろうということです。鉢に残ったものを、後で食べる子どものために小さな器に盛りかえてあげようということも家庭料理における工夫です。 家族別々に違う料理を作るなんてことではなくて、ちょっとしたことでいいのです。ほんのちょっと、できることをするのです。食べるほうは、そんなこと気づきもしないかもしれません。でも、このお料理は自分のために作ってくれているということを無意識のうちに心に溜め込んでいくのだと思います。家庭料理ではそもそも工夫しすぎないということのほうが大切だと思っています。それは、変化の少ない、あまり変わらないところに家族の安心があるからです。そういう意味でも食べ飽きないものを作っているのです。
作り手が自分、食べ手も自分という場合も、外では野菜が摂りにくいから味噌汁にたくさん入れておこうと、きっと無意識のうちにしていると思います。料理をする行為が純粋である場合には、良き食べ物を作るということが無意識にも含まれているように思います。作る人が食べる人のことを考えている。料理することは、すでに愛している。食べる人はすでに愛されています。
食育では、一緒に食べることの大切さ、家族揃って食卓を囲むことの大切さが説かれます。けれど、商売をやっている家庭や、親が働いている家庭では、一緒に食卓を囲めないのは当然で、親が用意した汁を自分たちで温めて、子どもだけで食べる。そんな家庭はたくさんあると思います。それでも、大切なものはもうすでにもらっています。それが手作りの料理です、愛情そのものです。だから、別に一緒に食べることばかりが大切じゃないのです。
家庭料理が、いつもいつもご馳走である必要も、いつもいつもおいしい必要もないのです。家の中でありとあらゆる経験をしているのです。ぜんぶ社会で役に立つことばかりです。上手でも下手でも、とにかくできることを一生懸命することがいちばんです。"
"【触覚】
日本語では、擬音語や擬態語が日常的によく使われます。こりこり、かりかり、さくさく、がりがり、つるつる……。それぞれの食べ物を「食べる」ときに出る音のように思われていますが、これは、それぞれの料理の「触感」を伝えています。日本人は、オノマトぺに表現されるような微妙に異なる刺激のニュアンスを、正確に共有できるのです。日本には多様な触感の楽しみがありますが、比較にならぬほど、外国料理の触覚の楽しみは少ないものです。ざる蕎麦をすする音にしても、それは、蕎麦の心地よい喉越しを伝え、触覚を楽しむためには必要な音ですから、本来嫌われる他人の食べる音であるにも関わらず、許容される以上に親しんでいるのです。
お料理の温度も刺激ですから、触覚です。ふうふうとするほどのあつあつ、頭が痛くなるような冷たい氷のひえひえを好みますが、どちらも過ぎると、味蕾で感じるべき味がわからなくなります。ゆえに、私たちは味を犠牲にして、触覚を優先させているとも言えるでしょう。意外と思われるかもしれませんが、日本人は、味蕾で感じる味を曖昧にして、あまり気にさえしていないように思われるのです。欧米にはそもそも、和食のような触感や温度を楽しむ習慣はありません。彼らがおいしいと感じる温度の幅が狭いのは、味覚と嗅覚を優先させているからです。その反対にある和食は、視覚と触覚を重視した料理とも言えるでしょう。"
"和食の調理は濁りを嫌って、きれいに澄むことが大事です。物事がうまくいけば「すみ(澄み)ました」といい、うまくいかなければ、「すみ(澄み)ません」と謝ります。"
↑これはちょっとむりくりなのでは、とおもしろかった
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『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤 亜紗
"本書はいわゆる福祉関係の問題を扱った書物ではなく、あくまで身体論であり、見える人と見えない人の違いを丁寧に確認しようとするものです。とはいえ、障害というフェイズを無視するわけではありません。助けるのではなく違いを面白がることから、障害に対して新しい社会的価値を生み出すことを目指しています。"
"つまり、見えない人は、見える人よりも、物が実際にそうであるように理解していることになります。模型を使って理解していることも大きいでしょう。その理解は、概念的、と言ってもいいかもしれません。直接触ることのできないものについては、辞書に書いてある記述を覚えるように、対象を理解しているのです。
定義通りに理解している、という点で興味深いのは、見えない人の色彩の理解です。個人差がありますが、物を見た経験を持たない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがあります。「私の好きな色は青」なんて言われるとかなりびっくりしてしまうのですが、聞いてみると、その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。たとえば赤は「りんご」「いちご」「トマト」「くちびる」が属していて「あたたかい気持ちになる色」、黄色は「バナナ」「踏切」「卵」が属していて「黒と組み合わせると警告を意味する色」といった具合です。"
↑(見える人にとって富士山は「八の字の末広がり」、見えない人にとっては「上がちょっと欠けた円錐形」を踏まえて)
"こうしたあいまいな連続状態から、目の力によって対象と自分を分断し、境界線をはっきりさせること、それが近代における「大人になる」ということです。低次の感覚から高次の教育とは、まさに子どもを触る世界から見る世界へ移行させることなのです。"
"あるいは、透明という質も、目だけがとらえるものではありません。透明な物質とは、遠くを見るときの窓ガラスや空気のように「そこにあるけどないことにできるもの」のことです。物理的には確かにそこに存在するのだけど、それを通り越して向こう側にあるものを知覚することができる。 実は触覚にも、同じような性質があります。たとえば腕をつかんでみると、腕の芯の部分にある骨を感じることができます。つかんだ手のひらとつかまれた骨のあいだには、皮膚、筋肉、血管、脂肪などがありますが、それを透過して、奥にある骨を感じることができるのです。あるいは車を運転しているとき。シートに座っているお尻で、道路のでこぼこを感じることができます。 お尻と道路は直接触れていないにもかかわらず、 シートや車体フレームを通して振動が伝わり、道路を知覚することができるのです。つまり、目だけではなく、手やお尻も透明を経験しうるのです。 見えない人の手だけが視覚的な働きをしているわけではなく、見える人の手やお尻も、実は目と同じような働きをしているのです。
"手が「読ん」だり、耳が「眺め」たり、お尻が「透明を感じ」たり……つまり私からの提案は、「何かをするのにどの器官を使ったっていいじゃないか」ということです。大事なのは「使っている器官が何か」ではない。むしろ「それをどのように使っているか」です。(略)生物の世界にたとえていうなら、鳥のように翼を使おうが、昆虫のように羽を使おうが、トビウオのように胸ビレを使おうが、どれもみな 「飛ぶじゃないか」、ということです。"
"こうして見ていくと、「乗る」という行為の面白さに気づかされます。電車に乗るにせよ、波に乗るにせよ、タンデムで自転車(とパイロット)に乗るにせよ、「乗る」という行為はどれも対話的です。「乗る」は「ノる」に通じています。つまり、「音楽にノる」「リズムにノる」などと言う場合の、調子良く、気持ち良く、身を任せている状態です。「動きの副産物に自然な進路をとらせること」であると。つまり思い通りにならない、偶然生まれてしまった動きを、「ノイズ」として消すのではなく、むしろキャッチして次の動きのきっかけとすること。意志をかたくなに通そうとするのではなく、自分ではないものをうまく「乗りこなす」こと。"
"ソーシャル・ビューは「見える人による解説」ではありません。見える人の仕事は、「正解」を言うことではないのです。「鑑賞するときは、見えているものと見えていないものを言葉にしてください」。「見えているもの」とは、文字どおり目の前にある、たとえば絵画の大きさだとか、色だとか、モチーフなど。 ひとことでいえば「客観的な情報」です。見えていないもの」とは、その人にしか分からない、思ったこと、印象、思い出した経験など。つまり「主観的な意味」です。ここにもまた、情報と意味、というあのテーマが潜んでいます。「客観的な情報」や「正しい解釈」だったら、見えない人だって本を読めば済むわけです。モナ・リザは〇〇年に描かれた絵画で、中央にいるのはこういうポーズの女性、表情はこんな感じで、背景には○○が……そういうアプローチももちろんアリでしょう。でも、それはあくまで「情報」です。知識は増えるけれど、それは果たして絵画を「鑑賞」したことになるのか。
情報化の時代にわざわざ集まってみんなで鑑賞する面白さは、見えないもの、つまり「意味」の部分を共有することにあります。もちろん、作品を見たその瞬間にぱっと意味が分かる人なんていません。しばらく眺め、場合によってはまわりをまわったりして、自分なりに気になった特徴を「入り口」として近づいてみる。もやもやしていた印象を少しずつはっきりさせ、部分と部分をつなぎあわせて、自分なりの「意味」を、解釈を、手探りで見つけていく。鑑賞とは遅々とした歩みであり、ときに間違ったり、迂回したり、いくつもの分かれ道があったり、なかなか一筋縄ではいきません。しかし、この遠回りこそが実は重要なのです。"
"作品を鑑賞するとは自分で作品を作り直すことである、と書きました。あまり一般的ではない意見かもしれません。ここで少し説明を加えておきたいと思います。鑑賞とは作品を味わい解釈することですが、鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には「正解がある」というものがあります。多くの人が「正解は作者が知っている」あるいは「批評家が正解を教えてくれる」と思っている。もちろん、好き勝手に解釈していいというものではないですが、だからといって自分なりの見方で見てはいけないと構えてしまっては意味がありません。"
"見える人同士だったら「この青、なんかグッとくるよね」で許されたとしても、それでは見えない人には通じません。多少がんばって、自分なりの解釈を、言語化してみる。「空というよりは海の青で……どんより曇った日の海・・・・・水面というよりは少し潜った感じ」。見えない人がそこにいるから、「なんとなく分かった気になる」ことが許されないのです。(略)つまりここでは、見えないという障害が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人の関係を深めたりする「触媒」になっているのです。触媒としての障害。見えることを基準に考えてしまうと、見えないことはネガティブな「壁」にしかなりません。でも見えないという特徴をみんなで引き受ければ、それは人びとを結びつけ、生産的な活動を促すポジティブな要素になりえます。"
↑以前読んだ『「色のふしぎ」と不思議な社会 - 2020年代の「色覚」言論』の、色盲を劣勢うんぬんではなくひとつの個性として捉える感覚と似ている
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『女の子は本当にピンクが好きなのか』堀越英美
"そもそも男性たちがピンクを好きでなければ、妻が台所をピンクに塗り立てることを許すとは思えない。『Pink Think』によれば、1955年の時点で、デパートのカタログの紳士服ページにはピンク色の衣料があふれていたという。ミネソタ大学のカラル・アン・マーリング教授(歴史学)は、当時の男性たちのピンク愛について、チャコールグレー一色であった時代に対する反発の現れではないかとみている。もしかしたらピンクは、遠く離れた戦地で思う故郷の母親と温かい家庭を象徴する色だったのかもしれない。 前述したように、世界中どこの国の国旗にもピンクは存在しない。ピンクは愛国心や血なまぐささから心理的に最も遠い色であることが、文化を超えて共有されていることの現れである。
戦争から解放された女性たちにとって、まずは男性の寵愛を得ることが豊かさや幸福への近道であったはずである。それには、戦争に疲れた男性を癒す家庭的な存在であることをアピールする必要があった。そのため、ピンクを身に着け、夫に尽くす従順さ、優美で繊細な女性らしさ、家庭内をハッピーにする適度な愚かさを持ち合わせていることを伝えようとしたのではないだろうか。当時のピンクが女性性と強く結びつけられていった背景には、かつての女性たちの「立身出世願望」があったはずである。"
"『奥さまは魔女』の主人公夫婦の娘・タバサちゃんの部屋が、壁も家具もインテリアもすべてピンクづくしであった。"

↑参考画像。これはB.A.B.Y好きには好みすぎるでしょう、、?😂
"おっぱいの大きいおバカなセクシーガールを演じていたジェーン・マンスフィールドは、大学で物理学を学び、5カ国語を話し、ピアノとバイオリン演奏に秀でた才媛であったことが伝えられている。彼女は知的であったからこそ、男性が自分に知性を求めていないことを早々と悟り、求められている女性性を必死に身にまとおうとしたのではないか(それこそ優等生的に)。"
"ピンクが女子カラーとして一般に定着するのは、日本の場合もう少し時間がかかった。これはおそらく、ピンク=桃色が長らくエロを象徴する色として使われていたせいではないかと思う。「ピンクサロン」「ピンク映画」「ピンクチラシ」など、ピンクと性風俗を結びつける言葉は多い。かつては「桃色遊戯」「桃色映画」などという言葉もあった。松沢呉一氏は、昭和初期のわいせつ雑誌の版元が、政府の規制をかわすためにひな祭りによって若い女性のイメージがついていた「桃色」という言葉を誌名に冠したあたりから、徐々にエロを匂わせる言葉として使われ出したのではないかと推測している。
ランダムハウス英和大辞典には、英語の「pink」には日本の「ピンク」に含まれているようなわいせつな意味はなく、わいせつを意味する色は「blue」であると記されている(例:ブルーフィルム)。なお、中国ではわいせつといえば黄色、スペインでは緑、イタリアでは赤である。"
↑ピンクとエロの結びつきは、日本独自のもの
"パステルカラーのグッズを友だちから「カワイイ」と褒められることは望ましいが、フリフリピンクの幼い格好で「カワイコブリッコ」と揶揄されることは避けたい。この感覚は、自分の欲望を隠さなければならないという抑圧に基づいている。エッセイストの酒井順子氏は当時の感覚についてこう記す。「今、聖子ちゃんカット時代の女の子の集合写真を見ると、『前髪、重っ!』という感じであるわけですが、あの時代のティーンにとって顔は恥部であり、隠すのは当然だった。なぜ彼女達は額を隠したのかというと、そこには『本性を出してはいけないのだ』という心理があったからなのでしょう」(「ぶりっ子」「携帯の無い青春』2007年)。
額だけではなく、ロングスカートで足を、ぶかぶかの上着で体型を、袖の裾を伸ばして手を、当時の少女はとかく隠したがっていた。聖子ちゃんカットの普通少女だけではない。不良少女もまたそのようにふるまった。少女文化がもてはやされはしたものの、少女自身には自分をさらけ出すのは恥ずかしいという感覚があったのである。少女とは、澁澤龍彦『少女コレクション序説』(一九八五年)の言葉を借りれば、社会的にも性的にも無知・無垢で「みずからは語り出さない受身の存在」であることによって、初めて男社会から価値を見いだされるものだったからだ。80年代の少女アイドルは「家族や友だちが勝手にオーディションに応募した」もしくは「友だちの付き添いでたまたま受かってしまった」という触れ込みで売り出され、口をぽかんと半開きにすることで無垢さを演出する。少女マンガのヒロインはといえば、自分に自信がなく、どうでもいいことでうじうじ悩む内気でおっちょこちょいな、それゆえに男たちから愛されるがその好意には気付かないというややこしい少女像が定番であった。自分の魅力を自覚してそれを演出し始めれば、それはもう無垢ではなく、したがってかわいくない(ということになる)。こういう価値観を刷り込まれた80年代の少女にとって、ピンクを身に着けることは、自らのかわいさを自覚して売り込む恥ずかしい振る舞いでしかない。"
↑昭和レトロ時代の女性像…わたしはこの「少女漫画的な展開」に多いに毒されているので知っていた方がいい
"男児と女児の玩具の好みの傾向差は、社会的に作られたジェンダーにすぎないのか。それとも生まれつきの性差なのか。
子育て中の親の大半は、答えは後者だと感じているのではないだろうか。こちらが刷り込んだ覚えもないのに、三歳にもなるとはっきりと男女で遊びや好みが分かれてしまうのだから。やはりなんらかの生物学的な根拠がありそうなものである。
まずはピンク・ブルー問題を抜きにして、単純に玩具の傾向だけを見てみよう。男の子はブーブー、女の子はお人形。これは社会の影響や同性間の同調圧力によるものなのか、もしくは生まれながらの好みなのか。こうした疑問に手がかりをしめす面白い実験を試みた学者がいた。アトランタのヤーキス国立霊長類研究センターの心理学者キム・ウォーレンらは、被験者を集め、車輪のついたおもちゃとぬいぐるみを用意した。ただし被験者は、オス11匹とメス23匹のアカゲザルである。オスは圧倒的に車輪のおもちゃで長く遊び、メスは車輪のおもちゃよりもぬいぐるみで遊ぶ時間がやや長かった。これは人間の子供とほぼ同じ傾向である。この実験結果は「子供のおもちゃの好みは社会的ジェンダーの反映にすぎない」という、これまで主流だった説を大いに揺るがせた。サル界において、「オスのくせにお人形で遊んでやがらあ! やーいオンナオトコ!」「トラックで遊んでるメスってカワイクなーい」などという同調圧力が発生するとは考えづらいからである。"
米国テキサスA&M大学の心理学者ジェリアン・アレキサンダー教授は、男女で玩具の好みが違う理由は、目の構造の性差にあるのではないかと推察している。目の網膜は光を神経シグナルに変換する組織だが、光の情報を中枢神経へ伝達する神経節細胞の分布は、男女で大きく異なる。男性の網膜に広く分布する“M細胞”は、おもに位置・方向・速度に関する情報を集め、色には反応しない。これが、男児がボール遊びや車のおもちゃを好む理由ではないかと考えられている。鉄道マニアがほぼ男性で占められている理由も、M細胞で説明できるのかもしれない。一方、女性の網膜には、色や質感に関する情報を集める“P細胞〟が広く分布している。女児のほうが色にこだわり、描く絵がカラフルであるのはこのためではないかというのである。
男児向け玩具のカラーリングが多様であるのに対し、女児向け玩具がピンクなどのパステルカラーに特化しているのも、P細胞のせいなのかもしれない。 幼い女の子の中にはピンクを見ただけで高揚してしまう子も少なくないが、男の子の場合、特定の色にそこまで入れ込むことはそうそうないからだ(なお、母親の胎内で男性ホルモンの一種であるアンドロゲンに大量に曝された女児は、男の子用のおもちゃを好む傾向があることも報告されている)。
ではなぜ、女児が選ぶ色はピンクなのか。これについても生物学的根拠を見いだせそうな面白い研究がある。1987年、ウィスコンシン大学マディソン校ハーロウ霊長類研究所のハイグレイ教授らは、アカゲザルのメスがピンクを好むのかどうかを検証する実験を行った。アカゲザルは、新生児の赤ちゃんだけが赤みを帯びたピンクの顔色をしている。そこで生後六ヶ月のそこそこ成長した幼児を、赤ちゃんと同じ顔色に染色したら、 成人のメスはどう反応するのか。赤ちゃんと同じピンクに塗られた幼児、異なる色に塗られた幼児、普通の幼児を成人のメスの前に用意し、その扱いの違いを調べた。すると、育児歴・年齢にかかわらず、メスは一様にピンク色に塗られた幼児に好意を示したのだ。
ここから考えられるのは、女性が一般に赤やピンクを好むのは、そうした好みを持つ女性のほうが、乳児の生存率をあげることができたからなのではないかという仮説である。赤やピンクを見てときめく女性が、そうでない女性よりも赤ちゃんを手厚く保護するならば、結果として赤やピンク好きの遺伝子が生き延びやすいということになる(何しろ“赤”ちゃんというくらいですし)。アースカラーを好むほっこり系女子は、奇跡的に自然淘汰を免れた貴重な存在なのかもしれない。"
"「かわいい女の子」のロールモデルが「頑張り屋さんだけど、算数は苦手」である社会では、かわいい存在でありたいと願う女の子は自らそちらのイメージに"寄せていく"のである。 本来の好き嫌いにかかわらず。そうして、本当に数学がわからなくなってしまうのだ。このように、「女の子は数学が苦手」「男の子は作文が苦手」「黒人は白人よりも勉強ができない」といった自分が属する集団への否定的な偏見を意識することで、ステレオタイプにかかわる能力が実際に低下してしまう現象は、社会心理学用語で「ステレオタイプ脅威」と呼ばれる。 "
"また女性は一般に、愛されるように、嫌われないようにということを第一に言い聞かされて育つため、「男性に嫌われるリスク」を高く見積もる。女性ビジネスマンや、リベラル系の女性政治家がどういう言われ方をしているかを見ていたら、普通の女性はなかなか政治経済の道を目指そうとは思えないだろう。評論家の斎藤美奈子氏は著書「物は言いよう』(2004年)の中で、「女」「母」「生活者の視点」を売りにする女性議員たちを、保育行政などでしか活躍できない「ピンクカラー」と呼び、女性議員たちがピンクカラーになる理由を、辻元清美氏らのようにピンクカラーから外れると男社会に受け入れられないからだと評した。選挙期間中の女性議員がド派手なピンクスーツを着がちなのも、せめて見た目だけでも「女の領域からはみだしませんよ」という無難さをアピールするためなのだろうか。"
↑これ言われてみればそのとおりでおもしろい・パート1
"日本は就業だけでなく、地域における政策・方針決定過程への女性参加の割合も低い国である。女性議員ゼロの地方自治体は、19%以上にものぼる(2015年『毎日新聞』全国自治体議会アンケート調査)。
ところが近年の地域活性策といえば、幼い見た目の「ゆるキャラ」、ピンクやパステルカラーの「萌えキャラ」を使ったものが珍しくない。決定権を握る場に女性が少ない地方ほど、たくましさや荒々しさといった従来の男性性よりも、かわいい女児センスが席巻するのは一見奇妙にも見える。しかし、現在主導権を有しているのが、女性の専業主婦化が進んだ高度成長期以降に養育された男性であることを鑑みると不思議ではない。母と子の世界に愛着を残す50代以下の男性たちが愛らしさや親しみやすさを表現しようとすると、限りなく女児の世界に近づいてしまうのだろう。"
↑これ言われてみればそのとおりでおもしろい・パート2
"一方で、「献身」 をイメージする色は国によってまちまちだ。
中国やロシアは国家を象徴する赤。欧米ではキリスト教のシンボルカラーである青。ピンクを選んだ人が一番多かった国は、日本だけであった。調査をまとめた千々岩英彰教授は、日本人にとって献身といえば母親だからなのではないかと推察している。また、「家庭」をイメージする色は日本ではピンクという答えが少なくなく、東アジア各国も上位を暖色系が占めたが、欧米では寒色系も多くランクインしている。家庭を守るのは母親の務めと見なされがちな東アジアに比べ、欧米では父性も大きいということなのだろう。日本は母性原理の国、対するキリスト教圏の欧米諸国は父性原理だとよく言われる。確かに、ピンク思想による母子密着育児のせいで若い男性が軟弱化したとなれば一気にウーマンリブが進み、「女子=ピンク」は悪となったら玩具店からピンクが消え、女子のSTEM系進学が善となったら堰を切ったようにSTEMドールが市場にたくさん出回る。アメリカは善と悪がパキパキわかれているんだなあ、と母性原理の国の住人は素朴に感心してしまう。
一方で、敗戦によって治者としての父性が確立しづらくなった日本では、女性の専業主婦化と家電の進化もあいまって、なし崩し的に母子密着育児が進んだ。女性たちは男性と席を並べて高等教育を受けることができるようになったものの、子供を産んだら社会から追い出されて、「母と子の世界」に閉じ込められてしまう。彼女たちはせき止められた自己実現願望を子供の世話を焼くことで満たし、自分を犠牲にしてでも息子(または娘)がいい学校、いい会社に入って出世するように心を砕く。ときには自分を家政婦としてしか見ない夫への失望から、息子を疑似恋人に仕立てあげて愛情を注ぎ込むこともある。
母子密着育児が男児をひ弱にしているという批判もあったにせよ、それを憂えるはずの父性は敗戦で屈折し、家庭には戻ってこなかった。息子たちは、父親不在のピンク色の「母と子の世界」で母からの献身を享受した後、母のいない「男社会」に放り出されることになる。彼らは男社会の競争の中で表向き男らしさを装いながら、母性の喪失を抱えて生きなければならない。こうした社会で女性に求められるのは、男性と同等の稼得能力でも確立した自我でもなく、母のようにすべてを肯定し受容する、ピンク色の母性である。"
"確かに、ピンクに好き嫌いはあるとしても、これまで日本女性は概ねピンクに従順だった。ピンクを好まない人でさえ、自分が女性性を受け入れていないから悪いのだと自分を責め、ピンクの押し付けに対して団結して声を荒げることはなかった。 ウーマンリブ運動が浸透しなかった代わりに、日本の女性たちはピンクの女性性をまとうことで社会進出を果たしたのである。書店の女性向け自己啓発書コーナーをのぞいてみれば、ピンクが現代女性の中でどのような位置づけを果たしているかがわかる。そこは決して男性が立ち入らない、ピンクの装丁がひしめく秘密の花園だ。目につくままに売れ筋のピンク装丁本のタイトルを列挙してみよう。『愛されながら仕事も恋も成功する方法ヘルシーでハッピーな人の338の生き方』『可愛いままで年収1000万円』『世界一! 愛されて幸福になる魔法のプリンセスレッスン』『女は、「感情」をコントロールしないほうが愛される』『カワイイ暴君になれば恋もお金も思うがまま!』『一瞬で選ばれる女になる! 魔法のしぐさ』『お金に愛されるハッピー・リッチなプリンセスルール』。
モテ、愛され、カワイイ、選ばれる。いずれも客体としての女性性を演じることで現世利益を得ようとする生々しい欲望に満ちている。"
↑ここのタイトルの羅列たちに吐き気がした人、多いんじゃないかしら( ▔'-'▔ )
"前章で見たとおり、母性、エロ、幼さ、そして献身……。日本におけるピンクは意味が何重にも重なっている。一言でまとめると「客体であれ」という期待だ。"
↑これがおそらくいちばん「本質」な気がしている
"アサーティブ(相手の立場を尊重した上で対等に自分の要望や意見を伝えるコミュニケーションの方法論)の対極にあるのが、「アグレッシブ(攻撃型)」と「パッシブ(受け身型)」である。これまで男の子はアグレッシブであること、女の子はパッシブであることを求められてきた。"
"「ハイディ・ハワード実験」
実在する野心的な女性起業家が成功した過程を、ある学生グループに対しては男性名「ハワード」で、もう一つの学生グループには女性名「ハイディ」で、それぞれ読み上げるというもの。すると、性別以外の情報はそっくり同じだったにもかかわらず、ハワードは好ましい同僚と見なされ、ハイディは自己主張が激しく自分勝手で一緒に働きたくない人物と見なされた。→男性の場合は成功と好感度が正比例し、女性の場合はその逆ということ。"
↑穂村さんのときゆってたやつ(回収おそい😂)
"男兄弟の序列の中で勝つために姫を得ようとするハンス王子と対比する形で描かれる、天涯孤独なクリストフもまた、新しい男性の在り方を示している。
エルサが作った氷の宮殿を一目見たクリストフは感嘆して「氷の城だ。泣きそうだよ」と感情をあらわにする。この“男らしくない”言動に対し、アナは「どうぞ。(泣いても男らしくないなんて)ジャッジしないわ」と返す。雄々しく氷に立ち向かい、エルサと戦おうとするハンス王子とは対照的だ。厳しい自然環境の中でトナカイだけを相棒に生きてきたクリストフは、他の男性と競いあったり、男性性を誇示しようとはしない。 トナカイとニンジンを分け合うときも、トナカイに先に食べさせてあげる自然な優しさがある。王家の生まれであるアナに対しても下手に出るでもなく、威張り散らすのでもなく、常にフラットだ。母親に尽くされて育ったわけではないので、精神的に自立しており、女性に母性も少女性も要求しない。感動を率直に見せる代わり、機嫌は安定している。
日本の男性文化人からは、「情けない」「ただの業者扱いじゃないか」と評判が悪かったクリストフだが、「男は弱い生き物なんだからご機嫌を損ねないように立ててうまく操りなさい」と日々言われている日本の女性からすると、実に頼もしく見えたはずだ。私はクリストフがアナをアシストする姿を見ている間、「結婚するならダイヤを買ってくれる男じゃなくて一緒にリヤカーを引いてくれる男」という漫画家・西原理恵子氏の言葉が頭を離れなかった。ヒットの要因は、国境を越えて通じるおばちゃんの世間知にもあったのかもしれない。同性との連帯にしか興味のない女児にとっては男性キャラは添え物でしかなかったかもしれないが、決して「男性なんかいらない」という映画ではない。"
↑『アナと雪の女王』のクリストフの存在について。フェミ思考の人ってまさに「男性なんかいらない」の極端な意見になりがち(男性差別を行っていて相手と同等)な印象があるのだけど、そうじゃなくって、というところを突いていてよい。
"文学部出身という重いハンデを乗り越えて職を得て、趣味の合う交友関係に恵まれ、結婚し、子供を産んだとする。やれこれで一安心、と思いきや、文学部出身者はここでも苦難に見舞われる。
ママ友を作ろうと思ったら、「男の子はおバカなところがかわいいのよねえ。女の子は口が達者でかわいくないけど」「上が女の子だといいわねえ。お世話してくれるから」「ダンナは大きな子供だと思わないと!」という無邪気な性差トークにいちいちダメ出ししてはいられない。主語の大きさがユーモアにつながる世界では、文学的繊細さは邪魔になる。
子供が小学校に上がってPTAに入れば、「地域の嫁」「学校の嫁」としての無償労働がふりかかる。体育館に閉じ込められての強制的な役員決め、病気や障害といったプライバシーを衆人環視のもと口にすることを強いられる通称「免除の儀式」、男性は会長職のみ、末端は女性ばかりという露骨な家父長制。勝手に役員にされ、不当さを訴えてみても、PTAの価値観にすっかり毒された周囲に「文句があるなら自分で変えなさいよ!」と罵られるというカフカの「審判」的状況が待ち受けている。西洋近代の個人主義思想をベースに文学を学んできたのに、個人も人権もあったもんじゃないPTAワールドに心をやられるリベラル女性は少なくない。"
↑女性のロールモデルの窮屈さめんどくささがこのひとかたまりにすべて凝縮されているので、わかってない諸君に読ませたらいいのではとゆうメモ
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碾茶(ひきちゃ) - 抹茶のことだった
抽斗(ひきだし) - 読み方
厭戦(えんせん) - 戦争を嫌うこと。読み方
酔生夢死(すいせいむし) - 虚しく生涯を終えること。まるでお酒に酔い夢見心地のまま、何1つ有意義なことをせず、一生を終えること。
やくたいもない - 役に立たない。無益な。(益体も無いと書くので、そっちだったら意味わかってたな)
相好を崩す(そうごうをくずす) - 顔をほころばせて心から喜ぶさま。喜びや笑いが自然に内からこぼれ、表情に現われる様子をいう。
エゴン・ミューラー、シャルツホーフベルガー - どちらもドイツワインの頂点に君臨する生産者(ジャーナリストや世界中の愛好家達より賞賛される)。
雀斑(そばかす) - 読み方
土仏の水遊び(つちぼとけのみずあそび) - 身の破滅を招くようなことを自らすることのたとえ。
子細らしい(しさいらしい) - 何かわけがありそうである。
菠薐草(ほうれんそう) - って漢字でこう書くの?むずかしいんだね?(「菠薐」とは中国語で「ペルシア」のことであり、ペルシアからきた草ということから「ポーレン」や「ホリン」と呼ばれ「ほうれん」の発音に変化)
Je ne sais quoi(ジュヌセクワ) - フランス語で「いわく言いがたいもの」。わかっているけれど言葉にできないもの(モテる人の魅力など)。
むべなるかな(宜なるかな) - もっともそのとおりだ。「さもありなん」と類義語だが「むべなるかな」はあくまでも誰かの考えに対して使われる。「わからいでか!」と似ているなあってごっちゃになるの、どうしよう助けて🤣
📖メモ
『黒魔術の手帖』澁澤龍彦(文中に「わたしはおもしろくなかった」って書いてあったけど😂)
『ガダラの豚』中島らも
🎬メモ
『枯葉』カウリスマキ監督(は淡々とした作品が多いらしい)
『PERFECT DAYS』
・「自立とは依存先を増やすことである」は熊谷晋一郎さんの言葉だった(脳性まひの小児科医)
・清野とおるさんの漫画『ウヒョッ!東京都北区赤羽』、これぞまさに東京のおもしろさだよね〜と楽しんでいたけれど、39話(4巻)のラストの展開にひどく感動したメモ(そこで!?ってかんじかもしれないけれど。これくらいの心がほしいな)