安心とは長い時間をかけて作り上げる・6月の日記たち
「今」の自分をつたなくも残しておくのは
これからの自分へのたしかな道標になるはず、
"日記を書かなくなると日々の解像度が落ちる"
-
当たり前なのだけど、泣きたくなるときは
だいたい相手が自分よりも正しいときだ
-
キーボードで文字を打ってるとき、
間違えたらコマンドZで戻すじゃないですか
でもその「間違えた”直後”のところ」ではなくって
「流れで打っていたところ」をひとくくりにしてごっそり消しやがるんです
書くという行為なのに、文字なのに、
「息継ぎ」をしているところを認識してるんだなって思って
ちょっと感動した
-
毎日決まったものを提供できる料理人という職業にはなれない
同じ型紙を使っても毎回違うものが出来上がってしまう人間なので
かつての上司は、だって別の味付けにしてみたくなっちゃうじゃない、
アレやコレやを入れたらどう変わるんだろうと試したくなるでしょ、と言っていたけど
私の場合は単純に技術不足により元々の手順が同じように踏めないってことですね
-
どっちもあなたそのものだから愛そうね
昼間に走り書く"比べてまだまし"という意味でのよい言葉も
真夜中のどうしようもなく独りよがりの海に放った言葉も
-
紫陽花を育てたいなあ、
目に届くところにあればどんなに素敵か と思うのだけれど
今日のドライブで道を間違えたとき、横目にたわわで立派な、
一株で大人3人でも抱え切れないんじゃないか、という子を見つけて
まるでおはなしの中のドレスや宝石のように色が移り変わっていて
どうせ私が手にかけた子はその子を超えられないんだろうな、
と思うとどうにも冷めてしまった
自分のこの、100が手に入らないのであれば
50はいらない0でよろしい、というような考え方は
どうも心を詰まらせているな、とおもう
これがつまり完璧主義者とゆうものか、
それに、紫陽花ってやつは冬にはただの枝になるところが
さみしくて難しい(ほら、だからこういうところ)
-
すさむってゆうのは十中八九お金が連れてきてお金が解決するんだよね、
と思ったけど世の中の大体のことは原因でしか解決できないのか、そうか…
-
好きなもの
私の好きなものはなんだろうか、と
少年アヤちゃんの『ぼくの宝ばこ』を読んで考える
もちろんぬいぐるみ、Vintage、つまりは仕事
ミルクティー(最近はただのカンフル剤)、
なにはともあれ夫のこと(私は夫のことを「好きな人」と指せるので十分しあわせなのだな、とおもう)、
こどもたちのことは好きだけど好きのジャンルがちょっと違う、
男の人の股のところの線、泰行さんの歌うときの声、
飛行機の窓側の席、道すがら周りを気にせずに歌う誰かのその"思い切り"という行為、
踏むと音のする枯れ葉、存分に束ねられたレース、
乾燥機から出したほかほかの洗濯物を畳むのも、と
今している動作のこともこのリストに加える、
この3日とも「バケツをひっくり返したような雨」で
(この表現、わかるけどなんとなくいけすかないなって思うのなんでだろうって考えたら
「オモチャ箱をひっくり返したような」ってゆう決して上手くない表現に嫌悪してるのの
とばっちりだと気づいた)今日は我が家史上最高の洗濯物の量でした、
日に日に暑く湿気を富んできた空気にすっかり半袖のパジャマ、が
4人分×2くらい並ぶ
ひやりと伸びる二の腕に いちいち温かなそれらが当たるので
冬にコタツでアイスが好きってゆうのも、
すごくわかるけどどこかモヤッとするのは
ああ わたしは暑い夏にアイスアイス、という
ごく普通を愛しているからだな
アイスはどのシーンだろうとアイスという存在がある限り
安らぎとか笑顔とかを持ってくるからだ、
などとまた誰しもが好きな変化球に歪んだ悪態をついたりした🍦
けっこういい歳になるまで、アイスはかたくなにコーン派で
だってコーンなら全部が食べられるのにカップなんて損しかしない!
と思っていた自分
鹿児島に住んでいた頃、
桜島フェリー乗客用の駐車場に入るための車が並んでいる道に
おじいちゃんがクーラーボックスを荷台に乗せた自転車で
一台一台に声かけてアイスクリームを売って回る、のが
わりとよく見かける光景だったんだけど
父が買ってあげるよ、というのでバニラ・ストロベリー・チョコの中から
毎回ストロベリーを選ぶのを「ああ いかにも子供の女の子の選択だなあ」と
当時3.4歳の私が思ったことをよく覚えている、
この頃の方が大人だったんじゃないか
話はどんどん逸れる
-
私はあくまでコレクター気質でありオタク気質ではないので
このBirthdayBarbieは何年製〜などとはまったくすぐに答えられやしないし
たとえ泰行さんの誕生日にもケーキを買ってきたりはしない
しかしそれは劣っているとか愛が足りないなどではないはず
-
頭のよい文章を見ると
私の文章は『まどろっこしく薄い』が正しい、と思っていて
そう思うのはなぜなのか、を考えたら
単純に本来の意味での「勉強」をしてこなかったからだろうなー、というのが答えかと
「ここに行きなさいと言われた学校」「のための対策」をとっていただけで
決して「自分のために」「学んで」はいなかった
まず"頭のよい文章"という表現でしか表せない時点でまるで駄目
ほら、なーんて
人のせいにすると自分のための何かにならない例そのもの
たまたま辿り着いたド好みのブログ🍈
https://mlneo.tumblr.com
2018に5つ、2015に6つの合計11つしか綴られていないけれど
最初のひと文でもうわかる圧倒的センス、すごい
リンクが何もなくて名前すらわからない、存在がここにしかないのもいい
彼女みたいな人がもっと続けるべきなのにな、
私じゃなくてな
これからの自分へのたしかな道標になるはず、
"日記を書かなくなると日々の解像度が落ちる"
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当たり前なのだけど、泣きたくなるときは
だいたい相手が自分よりも正しいときだ
-
キーボードで文字を打ってるとき、
間違えたらコマンドZで戻すじゃないですか
でもその「間違えた”直後”のところ」ではなくって
「流れで打っていたところ」をひとくくりにしてごっそり消しやがるんです
書くという行為なのに、文字なのに、
「息継ぎ」をしているところを認識してるんだなって思って
ちょっと感動した
-
毎日決まったものを提供できる料理人という職業にはなれない
同じ型紙を使っても毎回違うものが出来上がってしまう人間なので
かつての上司は、だって別の味付けにしてみたくなっちゃうじゃない、
アレやコレやを入れたらどう変わるんだろうと試したくなるでしょ、と言っていたけど
私の場合は単純に技術不足により元々の手順が同じように踏めないってことですね
-
どっちもあなたそのものだから愛そうね
昼間に走り書く"比べてまだまし"という意味でのよい言葉も
真夜中のどうしようもなく独りよがりの海に放った言葉も
-
紫陽花を育てたいなあ、
目に届くところにあればどんなに素敵か と思うのだけれど
今日のドライブで道を間違えたとき、横目にたわわで立派な、
一株で大人3人でも抱え切れないんじゃないか、という子を見つけて
まるでおはなしの中のドレスや宝石のように色が移り変わっていて
どうせ私が手にかけた子はその子を超えられないんだろうな、
と思うとどうにも冷めてしまった
自分のこの、100が手に入らないのであれば
50はいらない0でよろしい、というような考え方は
どうも心を詰まらせているな、とおもう
これがつまり完璧主義者とゆうものか、
それに、紫陽花ってやつは冬にはただの枝になるところが
さみしくて難しい(ほら、だからこういうところ)
-
すさむってゆうのは十中八九お金が連れてきてお金が解決するんだよね、
と思ったけど世の中の大体のことは原因でしか解決できないのか、そうか…
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好きなもの
私の好きなものはなんだろうか、と
少年アヤちゃんの『ぼくの宝ばこ』を読んで考える
もちろんぬいぐるみ、Vintage、つまりは仕事
ミルクティー(最近はただのカンフル剤)、
なにはともあれ夫のこと(私は夫のことを「好きな人」と指せるので十分しあわせなのだな、とおもう)、
こどもたちのことは好きだけど好きのジャンルがちょっと違う、
男の人の股のところの線、泰行さんの歌うときの声、
飛行機の窓側の席、道すがら周りを気にせずに歌う誰かのその"思い切り"という行為、
踏むと音のする枯れ葉、存分に束ねられたレース、
乾燥機から出したほかほかの洗濯物を畳むのも、と
今している動作のこともこのリストに加える、
この3日とも「バケツをひっくり返したような雨」で
(この表現、わかるけどなんとなくいけすかないなって思うのなんでだろうって考えたら
「オモチャ箱をひっくり返したような」ってゆう決して上手くない表現に嫌悪してるのの
とばっちりだと気づいた)今日は我が家史上最高の洗濯物の量でした、
日に日に暑く湿気を富んできた空気にすっかり半袖のパジャマ、が
4人分×2くらい並ぶ
ひやりと伸びる二の腕に いちいち温かなそれらが当たるので
冬にコタツでアイスが好きってゆうのも、
すごくわかるけどどこかモヤッとするのは
ああ わたしは暑い夏にアイスアイス、という
ごく普通を愛しているからだな
アイスはどのシーンだろうとアイスという存在がある限り
安らぎとか笑顔とかを持ってくるからだ、
などとまた誰しもが好きな変化球に歪んだ悪態をついたりした🍦
けっこういい歳になるまで、アイスはかたくなにコーン派で
だってコーンなら全部が食べられるのにカップなんて損しかしない!
と思っていた自分
鹿児島に住んでいた頃、
桜島フェリー乗客用の駐車場に入るための車が並んでいる道に
おじいちゃんがクーラーボックスを荷台に乗せた自転車で
一台一台に声かけてアイスクリームを売って回る、のが
わりとよく見かける光景だったんだけど
父が買ってあげるよ、というのでバニラ・ストロベリー・チョコの中から
毎回ストロベリーを選ぶのを「ああ いかにも子供の女の子の選択だなあ」と
当時3.4歳の私が思ったことをよく覚えている、
この頃の方が大人だったんじゃないか
話はどんどん逸れる
-
私はあくまでコレクター気質でありオタク気質ではないので
このBirthdayBarbieは何年製〜などとはまったくすぐに答えられやしないし
たとえ泰行さんの誕生日にもケーキを買ってきたりはしない
しかしそれは劣っているとか愛が足りないなどではないはず
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頭のよい文章を見ると
私の文章は『まどろっこしく薄い』が正しい、と思っていて
そう思うのはなぜなのか、を考えたら
単純に本来の意味での「勉強」をしてこなかったからだろうなー、というのが答えかと
「ここに行きなさいと言われた学校」「のための対策」をとっていただけで
決して「自分のために」「学んで」はいなかった
まず"頭のよい文章"という表現でしか表せない時点でまるで駄目
ほら、なーんて
人のせいにすると自分のための何かにならない例そのもの
たまたま辿り着いたド好みのブログ🍈
https://mlneo.tumblr.com
2018に5つ、2015に6つの合計11つしか綴られていないけれど
最初のひと文でもうわかる圧倒的センス、すごい
リンクが何もなくて名前すらわからない、存在がここにしかないのもいい
彼女みたいな人がもっと続けるべきなのにな、
私じゃなくてな